第58回岩手読書感想文コンクール高校・最優秀賞

海のその先を夢見る

岩手県立黒沢尻北高校2年

岡本(おかもと) ()(かな)

老人と海

 老人は強い。広く壮大な美しさと裏腹に、時に海は残酷さを垣間見せる。そんな世界で生きてきた老人に刻まれた深い皺や茶色のしみは、それと打って変わって、生命力を宿した海と同じ色をした目は、彼の人生のすべてを表しているように思えた。私が初めて触れたヘミングウェイ。それが「老人と海」だった。老いた漁師サンチャゴは、海と戦いながら、その先に強かった自分とかつての栄光を見ている。妻に先立たれ、まるで自分の子のようにかわいがってきた弟子の少年はあまりの不漁の末、別の船に移ってしまった。しまいには、九十日近い不漁がようやく断ち切れたかのように思えた大魚の獲得も、匂いを嗅ぎつけたサメの襲来によって、ほとんどの身を食らわれてしまう。

 「サラオ」

 それはスペイン語で不運のどん底を指す。この物語の冒頭で、かつて老人の下で漁についていた少年の父親が口にした言葉である。「不運のどん底」なんて、人生の中でそう何回も使う言葉ではないだろう。この本のページをめくるたびに、この老人はどれだけ不運なのだろうかと同情の念が積もった。

 私には、これといって夢がない。高校二年生、十七歳。高校生活の半分を終えようとしている今、進路はおろか、大まかな夢で良いからと言われても、それさえ思いつかないのだ。成人が十八歳になり、大人と言われる年齢に迫りつつある今、目指すものが無いということは、厳しく壁が高い目標を追いかけて努力することよりもはるかに辛いことのように感じられる。人生における責任ある決定に絶望と重圧さえ感じていた私とこの本が出会えたのは、まるで誰かが助けの手を差し伸べてくれたかのような巡り合わせに思えた。

 老人サンチャゴは、言うまでもなく運に見放されている。しかし、彼は海に繰り出すことをやめない。周りの漁師たちに笑われようと、同情されようと。それは、海に出ることが彼の生きがいで、日常だからではないだろうか。目標が定まらず、味気のない一日を繰り返す日々はもどかしく、まるでマラソン大会で何度も靴紐がほどけて結び直し、周りに置いてきぼりにされているような感覚だった。しかし、サンチャゴは、今の私の生き方を肯定してくれるような気さえした。夢や目標がなくても、それでいいのだと。いくら不運な出来事にさいなまれても、彼には少年がいる。彼を愛し、彼を慕う少年の存在。彼には海がある。人生をかけ、長い時間を共にした海。

 老人の強さは、私の祖母に似ている。私が目標について悩み始めた要因の一つに、祖母の存在があった。祖母は私によく、進路について話す。それは、高校生の私にとって小言やそれの類の言葉としてしか聞こえず、頻繁に私を苛立たせた。しかし、その祖母が昨年の十一月に突然病に倒れた。全く予測のできない急性の病。つい二時間ほど前に、いつものように学校に迎えに来てくれた祖母。さっき「じゃあ、会議に出かけるね。」と言って出かけた祖母。その後、病に倒れ、約二ケ月間の入院生活を送ることになるなど、誰が想像しただろう。祖母は、五時間を超える手術の末に一命をとりとめた。手術を終えて一週間、私は、なぜか毎日祖母に会いたくて、何度も病院に足を運んだ。たくさんの機器につながれた祖母の姿に涙が出た。見るに忍びない姿だった。それでも、私が祖母に会いたかったのは、私がひどく後悔していたからだと思う。「もしかしたら…」と、祖母の死も覚悟した。「もっと祖母と向き合っていれば良かった」「そっぽを向かずに、未来のことを一緒に話しておけば良かった」と。いつ何が起こるかなんて誰にも分からない。私のそのような葛藤を横目に、祖母は、驚くべきスピードで回復していった。その祖母に、私は強ささえ感じた。目標を持てないでいる私を、奮い立たせてくれる存在の祖母。生命力の強さを示してくれた祖母。小言だと感じていた祖母の言葉は、私にとって大きな意味のあるものだったと気付いた。

 「人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない」

 本作のこの名台詞には、ヘミングウェイが理想とした、人としての強さが投影されているように思えてならない。日々は絶え間なく流れ、私たちは呼吸を続ける。何度だって靴紐を結び直そう。何度ほどけても。老人が海のその先を目指し、何度も夢に見たアフリカの砂浜を歩くライオンに焦がれたように。

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